【函館市】『弁天岬台場跡』がとても歴史ある場所だという事を知っていましたか?
こちらは『弁天岬台場跡(弁天台場跡)』です。
市電『函館どつく前』電停を降りてすぐのところにある『魚見坂』の『函館厳島神社』の道路を挟んで向かい側に説明の看板があります。
『弁天岬台場』があった頃は、ここから先は海だったそうです。
と、言っても現在は、当時の面影は全くなく埋め立てられていて、普通の公園になっています。
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『弁天岬台場』は、1854年(安政元年)に函館奉行『竹内下野守』と『堀織部正』が、函館の警備について幕府に上申し、築造されました。設計・監督は『五稜郭』と同じ『武田斐三郎』によるものです。
不当辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)の台場で、1864年(元治元年)に完成しました。
(六稜郭ともいえるでしょうか?)
『弁天岬台場』は『新選組最後の地』でもあります。
『新選組』が映画やドラマで描かれるときは、大体が関東で隊長の『近藤勇』が投降し、板橋で斬首のシーンで終わるので、そこまでしか知らない人が多いのは仕方がないことなのかもしれませんが、その最後の姿までも知っている方は、意外と少ないように思います。
『新選組』のこの後ですが『土方歳三』は、旧幕府軍を率いる『榎本武揚』らと北海道に上陸し『蝦夷地共和国』を樹立しますが、『新政府軍』との『箱館戦争』にて敗戦してしまいます。
『土方歳三』は、この『箱館戦争』で銃弾に倒れ最後となりましたが、この時、救出に向かおうとしていた場所が、こちらの『弁天岬台場』でした。
『土方歳三』が、倒れたことによりこちらの『弁天岬台場』もあえなく投降となります。
この時、この台場を守備していたのが最後の『新選組』の百余名でした。
その『新選組の最後の地』がこちら『弁天岬台場跡』です。
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